遺愛エピソード

遺愛エピソード

遺愛には長い歴史の中で、様々なエピソードがあります。そんな遺愛や遺愛に関わった事柄のエピソードなどを紹介していきます。

鈴蘭の花を広く世に伝えたのは遺愛の宣教師たちだった

野の小道や庭に可憐に咲くスズラン。誰でも知っている花で、全国的にも北海道の花というイメージがあります。

遺愛の校章は1915年に制定されたもので左右から遺愛の文字を囲むデザインです。人格円満と純潔、謙遜を表現しています。

そしてこのスズランの花の愛らしさを広く伝えたのは、本校の宣教師達だったと伝えられています。明治時代の昔から、本校ではスズラン摘み遠足が行われるなど、ゆかりの深い花として大切にされてきました。公友会名の「鈴蘭会」は、今も生徒会名として受け継がれています。

鈴蘭の花を広く世に伝えたのは遺愛の宣教師たちだった
昔からあこがれの象徴だった、ホワイトハウス

本校の誇りである、遺愛女学校旧宣教師館は、美しい白壁からホワイトハウスと呼ばれています。函館出身の文学者亀井勝一郎は、寒川の渡し、立待岬の満月、旧桟橋の落日、教会堂のポプラ並木、臥牛山山頂、五稜郭の夏草、修道院の馬鈴薯の花と並んで、このホワイトハウスの緑陰を「函館八景」に挙げています。

この建物を外から眺めた函中の学生は「ミッションスクールの女子学生に対する少年のあこがれの象徴でした」と述懐しています。2001年、6月、国の重要文化財に指定されました。

昔からあこがれの象徴だった、ホワイトハウス
ハリス夫妻の日本への愛情を示す、ピストルを放棄した話

明治7年(1874年)、前年に結婚したばかりのMCハリス夫妻が、函館にその偉大なる一歩を踏み出しました。メソジスト教会の宣教師として日本派遣の命を受けたハリスは、もともと東洋への伝道を希望していました。

しかし当時の函館は、ドイツ領事が暗殺されるなど、在留外国人の間では不安が高まっていました。ハリス夫妻の身を案じた友人から護身用のピストルを贈られたほどでした。

ところが、ハリス夫妻は「たとえ事故にあっても悔いることはない。武器を携えることは自分の心に反することだ」と考え、函館に向かう途中、海にピストルを投げ捨てたと言います。日本人への愛情を示すエピソードとして今でも伝えられています。

ハリス夫妻の日本への愛情を示す、ピストルを放棄した話
「遺愛」という校名の由来

本校は開校に尽力されたライト夫人の名をとって「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」と呼ばれていました。しかし一世紀以上も昔の日本では、横文字はピンと来ない人も多く、覚えやすい日本語による校名が望まれていました。

そこで、文学者内藤鳴雪に、本校創立のいきさつを知らせて校名選定を依頼。「遺愛」の名が生まれました。

“Remembrance of Love”が英語によるもっとも適した表現であり、「遺愛」の二文字は開校に至るまでの物語を表現するのに、最もふさわしい校名と言えるでしょう。

「遺愛」という校名の由来
本校発展のために尽力された、初代理事長 佐藤昌介博士

本校の三大精神である「信仰・犠牲・奉仕」の額は、常に生徒・職員の目に触れるところに掲げられていますが、校長室に掲げられている額の文字は、大正15年(1926年)9月8日に初めて生徒たちの前に掲示されたものです。

この書は、本校の初代理事長であった佐藤昌介博士の筆によるものです。

佐藤博士と本校とのかかわりは、大正2年(1913年)、当時札幌農学校(現北海道大学)の総長だった氏が本校を視察したところから始まりました。デカルソン校長とも親交があり、「英文科の設置」「文部大臣指定学校になること」などを提案して、本校の発展のために尽力されました。

本校発展のために尽力された、初代理事長 佐藤昌介博士

ページの上に戻る

「函館市栄誉市民」の称号が贈られたミス・ドラ・エー・ワーグナー

米人教師、ミス・ドラ・エー・ワーグナーは、大正4年(1915年)から本校の教壇に立ち、昭和28年(1953年)まで約40年にわたって函館市の文化、女子教育、社会福祉に貢献しました。その功績が認められて、昭和42年(1967年)函館市から「函館市栄誉市民」の称号が贈られました。

本校の創立85周年記念式典のためにアメリカから来函していたミス・ドラ・エー・ワーグナーに、函館市から「あなたの心は、いつまでも函館に残るでしょう」という感謝の言葉とともに、表彰状や記念品が授与されました。

「函館市栄誉市民」の称号が贈られたミス・ドラ・エー・ワーグナー
セーラー服アラカルト

多くの女子学生のあこがれの制服として知られる本校の制服は、今から半世紀以上も前の昭和5年(1930年)に制定されました。残念ながら戦争によって途中何年か使用できなくなりましたが、復興が著しくなった昭和29年(1954年)には、待望の復活を果たしました。

復活当時は、教師側よりむしろ生徒側が積極的にかかわり、現在のデザインに決定したと言われています。制定前は和服洋服随意とし、和服の場合は「元禄袖綿服」として質素な装いが原則でした。制服の制定には、生徒の父母からの「そろそろ制服を定めては」という意見がきっかけでした。

セーラー服アラカルト
遺愛がモデル校だった石坂洋次郎の「若い人」

石坂洋次郎の小説「若い人」は、昭和8年〜12年(1933年〜37年)に発表されて人気を呼びました。青年教師と女学生、そして女性教師の3人が繰り広げる学園青春小説です。

石坂氏が執筆にあたって、本校を舞台としたと伝えられていることは、有名です。何度か映画化されました。

遺愛がモデル校だった石坂洋次郎の「若い人」
キリスト教主義女子校としては関東以北で最古の歴史を誇る「遺愛」

キリスト教主義の女子校は、東北・北海道地区に多数ありますが、最も長い歴史を有するのが、明治15年(1882年)2月1日、文部省認可の「学校」として正式にスタートした本校なのです。

当時、すでも孤児・貧時を収容した福祉施設や手芸裁縫を教えていたところもありましたが、本校が関東関東以北のキリスト教主義の女子校で最も古いと言われる所以は、創立当初から本格的な女子の教育機関としてスタートしたからに他なりません。

しかも、ハリス夫人が「函館に女子教育を」という考えで、遺愛の前身にあたる私塾を開いていたのは、その8年も前の明治7年(1874年)の事でした。

キリスト教主義女子校としては関東以北で最古の歴史を誇る「遺愛」
たくさんのドラマの舞台となるキャンパス

美しい校舎と季節ごとに表情を変えるキャンパスは、遺愛の大切な誇りでもあります。この美しいキャンパスを舞台に、たくさんの映画やCM、ドラマなどが撮影されました。

映画「星に願いを」は、函館の魅力があふれる映画ですが、その舞台の病院として使用されたのが遺愛の本館とホワイトハウスです。撮影当時、ホワイトハウスの前庭に、ちょうど見事に咲いていたクロッカスの花が監督の目にとまり、ストーリーの小道具として急遽使われることになったという逸話もあります。

たくさんのドラマの舞台となるキャンパス
啄木の娘が通う遺愛女学校

石川啄木は函館にゆかりの深い詩人です。その啄木の娘である京子は遺愛女学校の生徒でした。

京子は体が弱く、残念ながら卒業することは出来ませんでしたが、在学中にたくさんの小文や詩歌をしたためました。遺愛学院の大正期の校史資料は昭和20年の日本陸軍の校舎接収のおりに大半が散逸してしまいましたが、写真や書類、いくつかの小文が今でも大切に保管されています。

啄木の娘が通う遺愛女学校
創立者、ハリス夫人作詞の讃美歌

遺愛の創立者の1人、フローラ・ベスト・ハリスは敬虔なクリスチャンでした。讃美歌の343番「こよなきめぐみの」は、ハリス夫人の作詞による讃美歌です。

現在の校歌が制定される以前は、この讃美歌が校歌として歌われていました。

創立者、ハリス夫人作詞の讃美歌
ページの上に戻る